昨晩は父の夢を見た。
父は自分の葬儀にも関わらず
喪主のように先頭で
喪服を着て佇んでいた。
姿や佇まいは
はっきりと鮮明ではあるが
霊であるのはわかった。
いつかは消えてしまうのだ。
ではそれはいつだろうか?
疑問に感じながら父の姿を追う。
葬儀は終盤に差し掛かり
出棺の時間になった。
棺桶を霊柩車にこれから
乗せようかとしたところで
僕は目が覚めた。
睡眠障害と副作用の恩恵で
希望した夢であれば
眠ると続きを見られるのだが
起床時間であった為
僕は諦め起床した。
『死を乗り越える』とは
なんて綺麗事な言葉だろうか?
僕は今ひとつ
乗り越えられてはいない。
“怒り”の感情が邪魔をする。
家族に対しても
母に対しても
自分に対しても。
父の病状がわかり
余命が見えた時
僕以外は皆"言わない"選択をした。
結局、押し切られ
父に事実を言わなかったのだから
今となってはどうあがいても
僕もあちらと同じ"同種"である。
目の前の現実に
考える時間さえなかったと
家族は今でさえ
言うのかもしれない。
僕からすると違う。
現実は現実。
逃げられないものは逃げられない。
闘病は受け入れるだけの一方通行だと
身をもって知っているからだ。
余命も伝えずに
母と主治医で決められる治療。
入退院も何もかも。
犬猫と何が違うのだろうか?
といつも僕は考えてしまう。
入院の書類の中に
”告知を受けますか”
という項目がある。
そこに父が希望するの記載を
していたのならば
告知すべきだったのでは。
告知された父を受け止めるのが
家族が果たす役割であり
最後の最後まで隠すのは
役割の”放棄”に過ぎないのでは?
その一方で
僕は自身の治療を
自らの意思で決めている。
決断すべきものは
すべきであるし
いくら父の件があろうとも
背に腹は変えられない。
今までも。これからも。
父には治療方法も
余命も最期の過ごし方も
身辺整理も
何もかもさせなかったくせに
自身の病気となると
何もかも自分で決断を下すのだから
僕は卑怯で愚かだ。
昨晩の夢で
二度目のさよならを
父に言われたような気がしている。
もうその葛藤はいらないんだよとも。
父が亡くなり
時間が経過しても
自分を責める気持ちは
一向に無くならない。
昨晩、いくら父が
僕を慰めても。
これがHIVや闘病を通した
僕の父に対する供養と言われれば
それはそうなのだろう。
皮肉なものだ。
父は自分の葬儀にも関わらず
喪主のように先頭で
喪服を着て佇んでいた。
姿や佇まいは
はっきりと鮮明ではあるが
霊であるのはわかった。
いつかは消えてしまうのだ。
ではそれはいつだろうか?
疑問に感じながら父の姿を追う。
葬儀は終盤に差し掛かり
出棺の時間になった。
棺桶を霊柩車にこれから
乗せようかとしたところで
僕は目が覚めた。
睡眠障害と副作用の恩恵で
希望した夢であれば
眠ると続きを見られるのだが
起床時間であった為
僕は諦め起床した。
『死を乗り越える』とは
なんて綺麗事な言葉だろうか?
僕は今ひとつ
乗り越えられてはいない。
“怒り”の感情が邪魔をする。
家族に対しても
母に対しても
自分に対しても。
父の病状がわかり
余命が見えた時
僕以外は皆"言わない"選択をした。
結局、押し切られ
父に事実を言わなかったのだから
今となってはどうあがいても
僕もあちらと同じ"同種"である。
目の前の現実に
考える時間さえなかったと
家族は今でさえ
言うのかもしれない。
僕からすると違う。
現実は現実。
逃げられないものは逃げられない。
闘病は受け入れるだけの一方通行だと
身をもって知っているからだ。
余命も伝えずに
母と主治医で決められる治療。
入退院も何もかも。
犬猫と何が違うのだろうか?
といつも僕は考えてしまう。
入院の書類の中に
”告知を受けますか”
という項目がある。
そこに父が希望するの記載を
していたのならば
告知すべきだったのでは。
告知された父を受け止めるのが
家族が果たす役割であり
最後の最後まで隠すのは
役割の”放棄”に過ぎないのでは?
その一方で
僕は自身の治療を
自らの意思で決めている。
決断すべきものは
すべきであるし
いくら父の件があろうとも
背に腹は変えられない。
今までも。これからも。
父には治療方法も
余命も最期の過ごし方も
身辺整理も
何もかもさせなかったくせに
自身の病気となると
何もかも自分で決断を下すのだから
僕は卑怯で愚かだ。
昨晩の夢で
二度目のさよならを
父に言われたような気がしている。
もうその葛藤はいらないんだよとも。
父が亡くなり
時間が経過しても
自分を責める気持ちは
一向に無くならない。
昨晩、いくら父が
僕を慰めても。
これがHIVや闘病を通した
僕の父に対する供養と言われれば
それはそうなのだろう。
皮肉なものだ。