僕は確認ができる。
読者の興味は
HIV闘病を僕がどう始め
その時にどう感じていたのか
と同じく
“母への告知がどうであったか“
この二つはいつも
読まれる記事の上位にある。
どう始めたのかの記載があれば
今がどういう状況なのか
今日は自分でも整理しながら
書くつもりである。
7年前、僕はAIDSを発症し
HIVであると医師に告知された。
その時は入院しており
個別の対話室で医師に告げられた。
担当医からは今後のケアや
障害者などの手続きも含め
母への告知はすべきではないかと
意見された。
体調が次第に安定し
深夜の真っ暗で静かな
病棟の談話室で
外のコンビニの光を見つめながら
ゆっくりと時間をかけて
考え続けたのを覚えている。
そして数日後に
僕は母へHIVだと告げた。
僕は母と共に進んでいる。
エゴであった。
完全に。
薄々は感じていた。
自分の甘え。
それを鮮明にさせたのが
父が亡くなった時である。
HIV闘病を初めて
2年後である。
遺産分配の話になった際
母は僕に何も与えないと
僕に言い放った。
HIV患者だから
ではないのだろうが
僕がHIV患者ではなければ
母がその言葉を乱暴に
僕に投げかけなかっただろうと
僕は思うのだから
きっとその一因に
HIVがあったのだろう。
これを機に
一時は母と決別したのだが
家族という関係性と
患者と保護者という関係性を
混同すべきではないと
僕は考え始めた。
家族は常に
あるべき関係だけれども
保護者は違う。
患者が1人で歩けるようになれば
それを支える必要はないのだ。
5年経ったあたりから
通院の話題になると
『いつか治る日が
来るといいのにね』
と言うようになった。
希望とか悲観とか
何とも言い難いニュアンスである。
なるべく希望につながるよう
僕は新薬や薬の進化や
自身の症状の安定で
母を安心させるように
心掛けていた。
7年経つと
そのような内容も
僕に言わなくなった。
毎日毎日を重ねるうちに
HIV患者であろうと
僕は僕なのだと
受け入れてくれているのだろう。
もうこれ以上
HIVを挟んで
僕と母の関係性は
良くも悪くもならない。
そう考えると
それなりの時間がかかったが
僕と母は最終地点に
たどり着いたのではないか。