『HIV検査しよう』

“検査しよう”
“検査しよう”
“検査しよう”…

HIV検査を訴える啓発を見ると
どことなく違和感を感じてしまう。

その訴えのどこが悪いとか
ではないのだけれども

何かが物足りない
といった感覚に近い。

世界エイズデーになると
”検査”というものを
僕は考える。

何が検査を
拒ませてしまうのか。



HIV患者になると
暴言を受ける。

『死ね』はもちろんであるし
『その命に価値はあるの?』と
命の重さを他人に計られる。

はたまた”二次感染”を
テーマに掲げると
『もしも怪我をしてて
そこを家族が踏みつけて
相手がたまたま傷があったら
感染してしまう。
可能性はゼロではないでしょう?』

”車を運転すると
いくら安全運転をしていても
他人の車が突っ込み
事故して死ぬ可能性が
ゼロではないから
運転しません”
ぐらいの極論を論じられる時もある。

ネットであれば
自由な発言ができる。

いき過ぎた発言や
極論を正論だと勘違いするのは
健常者がHIVに関して
正しい知識がないからだ。



HIV患者になると
がらりと世界は変わる。

物事の感じ方も
考え方も変わる。

しかしながら
自分の芯は変わらない。

HIV感染してようが
していまいが
自分は自分だからだ。



”HIV検査を後押ししないもの”

健常者が正しい知識を持たず
暴言を正論だと勘違いするように

感染しているかしていないか
検査を拒む者もまた
正しい判断が
できていないのではないか?

健常者とHIV患者は違うように
HIVとAIDSもまた違う。

即座の判断を余儀なくされるし
家族への告知も迫られる。
金銭的な無駄な負担もあるし
HIVだと回避できる問題も
AIDSだとやむなく回避できない。

いくら医学が進んだとはいえ
AIDSで命を落とす可能性は
ゼロではない事実は
認識しておかなければならない。

恐怖心から検査を拒んでも
背に腹は変えられない。
第一に優先すべきは
自分の命である。

その為に
”検査”をすべきだ。


怖い気持ちはわかるんだ。
僕も以前はそうだったから。

だけれども僕のように
無駄にAIDS発症をすべきでは
ないんじゃないかな。
命を削る必要は。

副作用もあるけども
HIVが体内にあるのが
当たり前になると
自分がHIV患者である実感は
不思議と実感しなくなるんだ。

HIV感染は人生の
ただの通過点だと
感じているから。

副作用はあるけれども
それなりに毎日やれているよ。

もしも感染していたとしても
僕がなんとかやれているのだから
きっと、あなたもやれるはず。

”検査”が必要だと
感じるのならば
検査をしよう。

「がんばって」

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